「集合とはなにか」 竹内外史 著

新装版 集合とはなにか―はじめて学ぶ人のために (ブルーバックス)
後半はほとんど理解できていないのだけど、当たり前のように思っている事の根本を突き詰めていくと当たり前じゃない世界が現れる感じが楽しめて良かった。

一般の文章を次の形で考えてみます。
 主語xが性質Pをみたしている。
私達の今おこなっている述語の主語化は次の形で考えられるといってよいでしょう。
 "性質Pをみたすもののなかにxが入っている"
これを私達は、
 "性質Pをみたすものの集合のなかにxが入っている"
というふうに表現します。
すなわちここでやっていることは、性質というものを何かの属性としてではなく、思考の対象として、主語としてとりあげているのです。実はこれが集合の本質に外ならないのです。

俺にとっては新鮮な考え方で面白いのだけど、なんかレトリックにだまされてる感じがしないでもない。そんなことないか。
例えば、偶数を集めて「偶数の集合」を作って、「この集合が偶数です」と言われても、なんかすっきりしない。集合を作る段階ですでに偶数の性質を知っているから「偶数の集合」が作れたわけだ。うまく表現できないけど、鳥と卵のどっちが先かみたいな話をされているような気分だ。

したがって、有限集合Aの場合に、Aが{1,2,……,n}と一対一の対応があるときAの濃度をnと定義しますと、このnは一対一の対応のさせ方にはよらずAだけによって定まって、Aの元の個数と一致します。

カントールが証明したいろいろのことのなかで、上の定理"AとP(A)とは違う濃度をもっている"はセンセーショナルな出来事だったといってよいでしょう。それまで、"0,1,2,……それに無限"と"無限"は区別のない唯一の無限でした。それが、無限にも濃度とよばれる個数があること、しかもいろいろ異なった濃度(大きさ)の無限があることを上の定理は示したのです。

俺の理解がどこまで正しいかは自信がないけど、整数の数も偶数の数も10の倍数の数も、全部同じ無限だ。でも、偶数は整数の半分しかないし、10の倍数は整数の10分の1しかない。その差を濃度という言葉で表すのは面白いししっくりくる。